東京高等裁判所 昭和49年(う)220号 判決
被告人 祖堅章
〔抄 録〕
まず、右所論の(1)について検討すると、所論の指摘する本件前被告人夫婦が平素不仲の間柄であったという点については、この点に関する二・一四調書の供述記載の信憑力を疑わせる事情は認められず、これと原判決の挙示する証拠とを総合すると、原判示の事実認定を肯認することができる。しかし、原判決が、被告人が原判示のような放火の決意をするに至った事情として種々判示するところは、所論のように夫婦間の日常生活の瑣事とまではいえないにしても、所論のように原判示のような被告人に自暴自棄的な決意をさせる動機にまでなりえたか疑問があるとも考えられる。また、原判示の本件犯行当日における被告人の犯行に至るまでの外形的行動及び二・一四調書によって認められる本件犯行後の被告人の一見冷静であったともみえる行動は、右のような決意があったとすれば理解しにくいとする所論の主張も納得しえないものでもない。右の事情と被告人が捜査段階において本件当日の心境についての供述を転々と変えたことをも併せて考えると、二・一四調書の供述記載を主要な証拠として直ちに原判示の前記事実を認定しうるかについて疑問が残るといわざるをえない。
つぎに、右所論の(2)について、第一に本件の出火場所について検討すると、消防司令補佐藤栄一作成の火災原因調査報告(通報)書及び同人の当公判廷における証言によると、同人は、消防司令補として本件火災の出火原因の調査に当ったものであるが、土台の根太の焼燬の程度は管理人室居間より食堂の方が深かったことや居間の柱は食堂の方に向いて崩れ落ちていたなどの焼燬状況及び火災発生直後ころの目撃者である片川礼三の食堂が最初に燃えていたのを見た旨の供述などを根拠として、本件の出火場所が食堂であると判定したことが認められる。また、原判決の挙示する片川礼三の司法警察員に対する供述調書にも、右佐藤に対する供述と同様の供述記載があり、同松崎正夫の司法警察員に対する供述調書の一部にも右と同趣旨の供述記載があるが、その逆に本件管理人室居間が出火場所であることを確認すべき供述をした目撃者は見当らない。他方、前記佐藤証人の証言からもうかがわれるように、建物の構造や消防活動の方法等によっては、右佐藤証言のように建物の焼燬状況からその出火場所の判定をすることが科学的に完全に正しいといいえないこともありえようし、また、右片川の供述にしても、右佐藤に対するものと司法警察員に対するものとは火災状況を目撃した場所等に若干の相違があって、その信憑性に全く疑いがないわけではない。しかし、いずれにしても右の各証拠は、原判示の出火場所の事実認定に相当の疑問を生じさせるものと認めざるをえない。また、被告人や右片川ら寮生の捜査段階における各供述によって認められるように、本件火災発生後被告人が食堂の反対側の寝室から屋外に出たこと及びその後間もない時期に食堂が火に包まれた状況にあったことも、所論のように、本件の出火場所の認定について若干の疑を生じさせるものと考えられる。これらの証拠や事実を総合すると、所論のように本件出火場所が食堂であると断定することまではできないけれども、原判示の出火場所が管理人室居間であるとする事実認定には相当の疑問が残るといわなければならない。
第二に被告人の放火の行為について検討すると、二・一四調書には、被告人の放火の行為として、被告人は、食堂のテーブルの下に置いてあった二合から三合位石油の入った一斗缶を居間に持って来て、ソファーのところに立ったまま、自分の胸から下あたりに右の石油全部をかけたところ、石油は自分の着ているパジャマの胸から下にしみとおり、パジャマのズボンにもしみこみ、こぼれた石油が居間のじゅうたんにもしみていった、そして居間のテーブルの上に置いてあったたばこを吸うときに使うマッチをすって、その場にしゃがみ、石油がしみているじゅうたんにつけたところ、一回で火がついたと思う旨の供述記載がある。そしてまた、その後の燃焼状況につき、じゅうたんにしみた石油が燃えあがり、ぼっという音がして炎が二〇センチから三〇センチぐらいあがり、この炎が自分の着ていたネルのパジャマの上衣のすそについてパジャマが燃え出したので、あわててこのパジャマを脱ぎすてて、ソファーの上にあった座布団を両手に持って燃えているじゅうたんやパジャマの上衣などを叩いて火を消そうとしたが、このときには炎が一メートルぐらいもあがり、窓のカーテンに燃え移つたりしてとても消すことができず、そのうちに居間全体に火が廻ってしまった旨の供述記載がある。ところで、右の供述記載中の石油は、石油ストーブに用いられていたことが明らかであるから、灯油であると認められるが、鑑定人中川登作成の鑑定書及び同人の当公判廷における証言によると、灯油は、本件のようにじゅうたんの上に散布された場合、横にしみてひろがることは少なく、これにマッチで点火するには、一定の温度に高まり蒸気となって燃焼するという灯油の性質により若干の時間を要し、着火しても一度に燃えあがることはなく、散布の仕方によってその速度に相違はあるが、徐徐に燃焼面積がひろがると共に火勢が強まり、炎も高くなって行くものであること、本件のじゅうたんは、これにしみた灯油が燃えている間は燃焼するが、それ自体独立して燃焼することはないこと及び被告人の右供述とじゅうたん及び灯油量につき略同じ条件の下に被告人の供述と同様の方法によって右灯油に点火した場合、被告人の供述のように簡単には着火せず、最盛期の炎の高さが約一・二メートルに達するまでには一分ないし二分の時間を要し、被告人の右供述のように急速に燃えひろがり炎が高くあがることはないことが認められる。また、右の事実に徴すると、点火後しばらくの間は、被告人の右供述のように消火が著しく困難になるとは認められない。右のように被告人の右の放火の際における灯油の着火状況及びその後の燃焼状況についての供述は、明らかに科学的法則に反するものであるといわなければならない。しかも、所論も指摘するように、本件火災の原因についての被告人の右供述は、捜査段階及び原審公判段階を通じて目まぐるしく変転していること、二・一四調書中の放火行為についての供述記載が具体性に乏しいこと、二・一四調書中には被告人がパジャマの上衣に点火した旨の前記の供述記載と矛盾する供述記載があり、また、一方では被告人は当初、管理人室居間にあった点火中の石油ストーブを転倒させて失火したと主張したけれども、本件火災当時右石油ストーブが消火の状態にあった事実との矛盾を追及されたために、灯油をまいて放火したと自白した旨述べながら、他方では被告人は依然本件火災当時右の石油ストーブに点火していた旨述べるなど前後矛盾した供述記載があること、また被告人が焼身自殺の動機を述べながらじゅうたんに点火した旨甚だ不自然な放火方法を述べた供述記載があるなどの事実を併せ考えると、被告人の放火行為についての右の供述記載は、にわかに信用することができない。
以上を総合して考察すると、所論の指摘する諸点につき、これまでに取調べられた証拠によっては未だ当裁判所に合理的な疑いを越える確信を得させるには十分でないので、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるといわなければならない。それで、論旨は、理由がある。
(浦辺 環 内匠)